大阪高等裁判所 昭和33年(う)1499号 判決 1959年7月08日
被告人 木村敏孝
主文
本件控訴を棄却する。
理由
弁護人の控訴趣意一、及び被告人の控訴趣意二、中事実誤認の主張について、
論旨は、原判決には事実誤認の違法があるといい、大旨次のとおり主張する。すなわち、
(一) 被告人には本件について殺害の意思はなかつた。被告人が手斧で被害者三名を殴打したのは、被害者らが声を立てると近隣に知れるので、これを防ぐため被害者らを昏倒させるだけの目的で殴打したのであつて、殺害の目的ではなかつた。若し、殺害の意思があつたとすれば、手斧で容易に被害者らを完全に殺害しえたのに、殺意がなかつたから即死せしめず、又それ故に、手斧は刃部を使用せずに、その背部を使用したり、昏倒した鈴木信太郎を蒲団に収容したり、鈴木京子の止血に努めたりしたのである。原判決は手斧は相当の重量があるということを殺意認定の一理由としているが、本件の手斧は木柄の長さ約一尺、刃部の巾二寸、背部の巾一寸五分大の手斧で、左程重いものではない。次に、放火に当つても、被害者四名を殺害する目的はなく、又当時正常の判断能力はなく、被害者らが焼死するかも知れないというようなことは認識していなかつたのである。却つて、放火するに当つては、表戸を開放したままであり、深夜ではなかつたから、出火と同時に近隣者が発見し、被害者らを救出してくれるものと期待していたのである。若し、殺害の意思があれば、被害者四名を完全に殺した上、時刻を遅らせ真夜中に、表戸を厳重に閉鎖し、且つ一個所でなく、数個所に放火し、以て短時間に且つ完全に焼失することを期し、犯跡を湮滅する万全の方法を構じた筈である。しかるに、原判決が被告人に殺意ありとなしたのは、事実を誤認したものであり、殊に、原判決が、鈴木信太郎と他の被害者三名に対する殺意決定の時期を、それぞれ別に認定しているのは極めて不自然である。かかる不自然さは、結局、原判決が経験則に反し本件について殺意を肯認した誤に由来するものである。
(二) 仮に被告人に殺意ありとするも、本件は中止未遂である。被告人は被害者四名を容易に完全に殺害しえたのに、昏倒の程度に止めて殺害せず、且つ放火に際しても、近隣者による救出を期待して表戸を開放したまま脱出したのであるから、本件は中止未遂である。しかるに、原判決が弁護人のこの主張を排斥したのは事実を誤認したものである。
(三) 原判示の所為は、心神喪失者又は心神耗弱者の行為であり、少なくとも犯行時被告人は心神喪失又は心神耗弱の状況にあつたことは、本件記録に徴し明白である。しかるに、原判決が弁護人のこの主張を排斥したのは事実を誤認したものであるとなすのである。
しかし、原判示事実は、殺意の点を含め、すべて原判決挙示の証拠により優に認め得るのである。以下所論の点について、原審及び当審において取り調べた証拠に基いて判断する。
(一) 殺意の否認について、
本件の兇器(証第十号)は木柄の長さ約三十七糎、刃部の長さ約六糎、峯部の長さ約三糎五粍、峯部の厚さ約二糎五粍、峯から刃先まで約十三糎、重量約八百瓦の手斧であること、被告人は鈴木[火召]成方に侵入するに当り、家人に発見された際は、相手を殴打昏倒させる目的で右手斧を携行して行つたものであること、そして、被害者江種玲子(当時十七歳)、同鈴木のり子(当時十一歳)、同鈴木京子(当時三十七歳)に順次出会うや、その都度被告人の姿を見て恐れ逃れようとする被害者らを追い、同人らが逃げたり、救を求めたりすることを不能ならしめるため、身動きも、発声もなし得ない程度の重傷を負はしめる目的で、その頭部を殴打したものであること、がそれぞれ認められる。このような兇器の形状、重量、打撃の目的、方法、部位及び被害者らが無抵抗の女性であつたこと等に照し、被害者らに致命的損傷を与える可能性のあることが顕著であるから、被告人の右三名に対する手斧による打撃は確定的な殺意は別として原判示の如き未必的殺意に出でたものであると認めて何ら差支えなく、被告人はこの殺意を持続しながら、更に原判示放火をなしたものであるが、右放火に際し、右三名及び鈴木信太郎が焼死するに至るかも知れないことをも予見していたことは、同人らがいずれも被告人の加えた重傷により屋内に昏倒していて、自ら脱出することが不可能の状況にあり、しかも他からの救出も期待し得ない状況にあることを熟知しながら、原判示のような方法で右家屋に放火したまま逃走した事実に徴し明白であるから、被告人の原判示放火行為は、同時に右四名に対する未必的殺意の表現であると認めざるを得ない。本件兇器が斧としては特に重いものではなく、兇行に際し峯部が使用されたことは所論指摘のとおりであるが、本件の斧を兇器としての観点から検討すると、原判示のとおり相当の重量のある兇器であつて、人体を殴打するに当り、その刃部を使用すると、峯部を使用するとにより、与える損傷の程度に差異のあるべきことは別とし、双方ともに人に致命的傷害を与える性能が高いものであると認められる。被告人が放火するまでの間に、被害者三名を殴打昏倒させたが、それ以上の攻撃はしなかつたこと、及び鈴木京子の出血を拭いたり、頭部の傷を布で覆つたこと、は認められるが、それらのことは、本件に現われた諸般の状況に照し、被告人の右三名に対する打撃行為に未必的殺意を肯認することと何ら矛盾を来すものとは解せられず、前記認定を覆し得るものでない。本件放火は屋内の指紋を焼失させると同時に、被害者ら四名が早く発見救出されることを期待し、なしたというが、被告人の指紋を焼失させるためには鈴木方を全焼せしめなければならぬことであり、全焼せしめるためには出火の発見が遅れることを希望すべき筋合であつて、両目的は両立し得ないところである。又、若し、真に被害者らの救出されることを望んでいたとすれば、江種玲子の姿を見失い、同女が逃げたと思つたという時に、玲子の申告によつて被害者ら救助の手の来ることを知り、むしろそのまま退去する筈の措置に出るのが筋合であり、殊更放火行為に出ずる道理はない。それにもかかわらず、被告人が本件放火の目的は近隣者をして被害者らを早期に発見救助せしめるにあつたといい、被害者らが焼死するに至るとは予見していなかつたと強弁する、その心情は推察し得られないこともないが、該主張は本件における被告人の行為の推移全体に徴し、到底首肯せしめるに足る合理性なく採用し得るものではない。又鈴木信太郎に対する殺意と他の三名に対する殺意とが時間的にずれているのは経験則に反するというが、鈴木信太郎が当時三歳の幼児で、被告人の一と突きによつてたやすく昏倒した可憐の姿を見、さすがの被告人も兇器を振うに至らなかつたので、この段階においては、いまだ同児に対しては未必的殺意もなかつたが、放火に際しては、如上説明のとおり犯跡隠蔽のため他の三名に対すると同様、同児に対しても未必的殺意の下に放火するに至つたことが認められる。してみると、殺意決定の時期を、原判示のとおり別に認定したからといつて経験則に反するとなすことはできない。又放火に際しては正常な判断能力がなかつたというが、後に心神喪失等の主張に対する判断において説示するとおり、被告人は本件犯行時においても、現時と同様被告人平時の精神状態にあつたもので何ら意識障碍があつたとは認められない。
これを要するに、原判決が被告人の所為について、判示のとおり殺意を肯認したことは適正であつて、事実誤認の廉はない。
(二) 中止未遂の主張について、
しかし、刑法第四十三条但し書にいわゆる中止犯は犯人が犯罪の実行に着手したる後、その継続中任意にこれを中止し、若しくは結果の発生を防止するにより成立するもので、結果の発生の防止は必ずしも単独でこれに当る必要はないが、自らこれに当らない場合は、少くとも犯人自身これが防止に当つたと同視するに足る程度の真摯の努力をなす必要があると解すべきであるところ、被告人は先に説示したとおり、まず江種玲子、鈴木のり子及び鈴木京子に対し、いずれも未必的殺意を以てその頭部を斧で殴打して同人らを昏倒させ、その後も右殺意を持続し、又鈴木信太郎に対しては放火に際し未必的殺意を持つに至つたが、いずれも原判示強盗の機会に放火行為により右四名が焼死するに至るべきことを予見しながら、敢えて放火し、且つその予見のとおり右四名を焼死するに至らしめたものであるから、被告人の原判示強盗殺人、放火の所為は既遂となつており、法律上中止犯の観念を容るる余地のないものであるばかりでなく情状論としても、被告人自身結果の発生防止につき何ら真摯の努力をしていないのであるから、中止犯であるとの主張は到底採るを得ない。原判決がこの主張を排斥したのはもとより当然である。
(三) 心神喪失又は耗弱の主張について、
記録によつて調査すると、被告人は本件犯行時及びその前後の事実を充分詳細に記憶し、整然と明確に述べており、その行動も一応統制がとれていて意識障碍時におけるような支離滅裂或は了解不能の傾向はみられずその他記録中の諸資料に徴し被告人が犯時心神喪失又は耗弱の状況にあつたことは認められない。原判決が鑑定人岡本重一の鑑定結果等に依拠し弁護人の心神喪失又は耗弱との主張を採用しなかつたのは正当である。
以上の理由により論旨はいずれも理由がない。
弁護人の控訴趣意三、被告人の控訴趣意二中擬律錯誤の主張について、
弁護人の論旨は、被告人の本件所為は殺意に出でたものでないから、強盗傷人、放火、致死罪が成立するのみであるのに、原判決が強盗殺人、放火の各法条を適用処断したのは法令の適用を誤つたものであるといい、被告人の論旨は、被告人の本件所為は殺意がないから、刑法第二百四十条前段、同法第百八条の併合罪であるのに、原判決が刑法第二百四十条後段、第百八条を適用したのは法令の適用を誤つたものであるというのである。しかし、被告人の殺意を肯認した原判決の事実認定に誤のないことは先に詳述したとおりである。そして、右判示事実に対する原判決の法令の適用には何らの誤も発見されないのである。所論はいずれも被告人の殺意を否定し、原判決の認定と異る事実を前提として擬律錯誤を主張するものであるから採用できない。論旨はいずれも理由がない。
弁護人の控訴趣意二、及び被告人の控訴趣意一、三、について、
論旨は、まず、死刑制度は残虐な刑罰で憲法第三十六条に違反するから廃止すべきものであると主張するものの如くである。そして、次に、被告人の不幸なる生い立ち、田中富美子との結婚が失敗するに至つた原因、経緯、その後の深刻な失意の心境等本件犯行までの被告人の責に帰することのできない内外の事情、本件犯行の動機、特にその内面的原因、犯行の態様、特にそれが中止未遂であること、犯行後被告人が改悛していること、養母が被告人を唯一の頼みとしていること等を斟酌し、更に、刑の目的が犯罪者の教育にあること、少年法第五十一条が犯時十八才未満の者に対し死刑を科さないこと等を考慮すると、原審が被告人に対し死刑の言渡をなしたのは、不当であり、且つ重きにすぎるというのである。
よつて、まず、死刑廃止ないし違憲の主張について按ずるに、強盗殺人の犯行は尊厳な個人の生命をみだりに奪うものであつて、社会的人間生活の安全を根底から破壊する憎むべき反社会的行為である。今日の時代と環境とにおいて、強盗殺人罪に対し社会の秩序と公共の福祉を護るために刑罰として死刑を科する場合のあることは、必要であり、是認さるべきであるといわなければならない。それ故、刑法第二百四十条後段が刑罰として死刑を定めたことは憲法第三十六条に違反するところはない。(最高裁判所昭和二三年三月一二日大法廷判決参照)又死刑廃止の主張は立法論として論議せられるべきところであつて、現下わが国の刑法制度に死刑が制定せられておる以上、死刑を科することが不当でこれを全廃すべきであるとの論は、本件につき未だ採用するに値しないこと言をまたない。なお被告人は少年法第五十一条が存することを理由として二十五歳位までの青少年であつても思慮分別が充分でない者に対しては、死刑を以て処断すべきものであつても無期刑を科することは許されてよい旨主張するのであるが、少年法第五十一条は十八歳に満たない者に対する処分であつて、これは右のような低年者の福祉等に鑑み設けられておる規定であるから、同条所定以上の年齢者に同条の適用のないことは勿論であり、年齢によるかかる区別があつても何等不当のものとは解することができず、所論の年齢の者に対しては、所論の如く若年であること、思慮分別の如何等により情状として酌量せられ死刑を科することのない事案はあるにしても、これと異なり犯情に従い死刑を科することが相当である案件も亦あり得るのである。
所論はいずれも採用できない。
次に、量刑不当の主張につき判断をする。本件記録並びに原審において取り調べた証拠を精査し、所論指摘の各事情はもちろん十分これを検討し、更に念のため当審においても自ら事実の取り調べをして刑の量定に関係のあるすべての事情を調査したのであるが、被告人の本件犯行は、その動機において特に酌量すべき点はなく、その態様を観るに金品強取のため全く罪のない四名の者の生命を奪つたもので、その方法たるや、残酷兇暴であつて、それが被害者らの遺族に与えた衝撃はまことに重大であり、更に社会全般に与えた恐怖や不安も亦深甚なものがあつた。これらの諸点に鑑みるときは、被告人に有利とされる一切の事情を斟酌しても、原判決の量刑に一等を減ずべき理由はついに見出すことができなかつたのである。被告人はなお前途春秋に富む青年であり、被告人の処刑に心を痛めている養母の心情に思いを致せば、同情の念を禁じえないけれども、このことは同時に、被告人の暴挙のため最愛の妻子ら四名の生命を奪われ、長年の努力によつて築き上げた平和にして豊かな家庭を一夜にして破壊し去られた鈴木[火召]成ら遺族の感情を無視することができなことを教えるものである。すなわち、本件の被害者四名は何ら責むべき科もないのに、被告人の残酷兇暴な犯行によつて、何ものにも代えがたい生命を奪われたのである。被告人としては、ここに思いをしたし、原判決の量刑が真にやむをえないものであることを知るべきである。以上説明したところ、及び記録に現われた一切の事情に照し、被告人に対しては結局死刑を科するのが相当であると認めざるをえないから、原判決の量刑は相当であつて、本論旨も亦理由がない。
よつて、刑事訴訟法第三百九十六条に従つて主文のとおり判決する。
(裁判官 大西和夫 奥戸新三 石合茂四郎)